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開山縁起西明寺入道こと北条時頼とのゆかりかっては山深い草庵があったが、あるとき下貫の畠に積まれた ”稲にお”(稲鳰)の上に秋の月光を浴びて千手観音のお姿が立ったという。以後本尊に千手観音をまつり、この地を稲倉と称した。宝治二年(1248年)越後路を旅していた鎌倉の西明寺入道こと北条時頼が北国視察巡礼の折り、この地を通り、草庵に宿をとった。そして夕食に竹の子飯を馳走になり大変喜んだ時頼は、草庵に対して寺格一等を与えて竹子山の山号を賜り、それまで背負仏としていた岩屋地蔵尊と水晶の念珠を置いて立ち去ったという。 僧了浄により開山寺院過去帳(江戸時代作成)によると、正元元年(1259年)僧了浄によって開山。伝説(口伝)によれば、北国巡礼を終えて都に帰った時頼が法然上人の弟子願誉了浄上人に命じて開山したことになっている。
北条時頼公が名付けたと云われる竹子山宝蔵寺山号額(総本山知恩院大僧正 萬誉書)と北条時頼公背負佛(指定文化財)と水晶の数珠推論浄土宗と北条家の因縁については、3祖良忠上人(記主禅師)宝治3年(1249年)よりの信州詣で、関東遊化のさい鎌倉に入り、北条経時を檀那として蓮華院(光明寺)を開山。また、北条時頼は武州箕田に勝願寺を建て師の供養をし、次いで下総鏑木在阿入道の請いに応じ、下総光明寺をひらく、その他48ヶ寺を開く云々...である上記ように鎌倉政権と浄土宗の関係は深く「北条時頼⇒僧了浄」の年代もほぼ一致しており、関係も直接ではないにしても繋がる可能性がある。
災害本堂焼失正徳元年(1711年)火災により焼失、その後約100年年間仮本堂文化にて、法灯を守り続ける。仮本堂は現在の本堂の西側にあったといわれる。仮本堂の詳細やこの間に付いては記録は当寺院にはほとんど残されていない。ただ、取りこわした仮本堂は九日町洞源寺に移築されたと記録にある。また、欄間等若干のものは岩沢の不動寺へ移されていることは、中魚沼郡誌にも記載あり。これらのことより仮本堂とは云えども相当のものであったと推察される。 水害寛政12年には寺が大洪水に見舞われたことも記録にある。現在川は寺から離れて西側の山裾を流れているが昔はもっと近くにあり大雨が降れば寺の境内あたりまで水の危険があったようである。
再建本堂再建現存する「本堂再建立帳」によれば本堂が起工 文化9年甲11月(1812年)、棟上文政元年9月(1818年)となっている。また、これに続き庫裏は文政4年に建立されている。着工から庫裏の完成までに約10年の歳月を要している。この本堂再建事業をおこなったときの住職は第33世厳誉快全和尚であり、なんと僅か24歳で住職になり31歳でこの大事業に取り組んでいる。棟梁は二日町 内藤藤蔵・一村尾 小幡金次郎・二日町 内藤武三郎外大工大勢である。いかに大事業であったかを推察するためにその概要を記す。(本堂建立のみの概要で庫裏は別)
前述「本堂再建立帳」にはその他詳しく記してあるが都合上省くが、この数字からも未曾有の大事業であったことが伺える。また、「本堂再建立帳」の末尾には「文政5年午6月是を相改申候 辻又村 清兵衛」という著名があって氏がこの普請について重要な役割を果たしていたことも分かる。 川廻し(背替工事)当事の川は、今の県道向かいの内鎮守の森の東側あたりから庫裏の下側の向かって流れ、それから今の三坂橋のかかっているあたりに向かっていという言い伝えもあり川は寺の玄関先を流れていた。このため常に水害の危険性があったと思われる。この、川筋を西側の山の出っ張った下(山裾)に間歩を掘り抜いて、流れをそちらに移し、更に旧河川敷を埋め立てて立派な耕地とした。この事業をやったのが第34世 梅誉上人である。工事は天保5年(1834年)に開始(終了時期は明確でない..)本堂再建より約10年再度の献身により環境整備されることにより寺勢はますます興隆したであろうことが想像される。また、この事業は寺のためのみでなく、寺伝の「伝来記」には村人大いに歓喜す、という記述もある。 中興幕末第35世の立誉上人は弘化4年(1847年)住職着任し在職10年の安政3年(1856年)には高田 善導寺へ転出してしまい一時無住となる。このため組寺壇中は願い出て総本山の仰付けにより識誉上人(姓・漆間 宗祖法然上人も美作漆間氏だが?)が安政4年に着任する。徳川幕府の崩壊、明治維新へと続くいわゆる幕末である。安政の大獄、戊辰戦争等激動のこの時代これだけの勢力のあった寺が歴史に無関係のはずはないと思われるが、その記録は寺には残っていない。僅かに安政5年8月(1858年)に宗祖大師650年忌の大法要とそれを記念しての鐘楼門の改築が行われている。 荒廃長い間隆盛を維持してきた当寺にも荒廃の時が訪れる。 明治6年(1873年)識誉上人御遷化の後、第37世の得誉(名は快祐)酒、博打、女色とおよそ僧侶らしからぬ不行跡、また、その間の寺の荒廃ぶりは目を覆うばかりであったといわれる。明治維新の混乱が収束しておらず人心の乱れ甚だしく、また、廃仏毀釈思想等の仏教頽廃機運の時期に寺院の運営も困難をきわめたことが想像されるにしても、当寺の長い歴史のたった一つの汚点としか云いようのない記録である。得誉は明治11年2月1日付けをもって檀家により罷免されている。 努力中興第38世 呼誉上人は明治12年(1879年)壇信徒の強い懇請によって着任。以後荒廃した寺の建て直しにまさに至心粉骨し寺の再興面目を一新した。また、上人は教育に対しても卓見であり、寺を解放して部落の子弟の教育をおこなった。さらに徒弟育成についても4人の弟子を立派に育てている。この弟子のうち2上人が後に当寺の住職となり法灯を守ることとなる(第39世 旺誉上人、第40世 頓誉上人、また弟子のひとり黒島乗念上人は東京浅草保元寺住職となる−当寺は後進不育成で住職後継問題にて間々無住となっている。また、得誉の不行跡も後進育成と無関係とは云い難い....)ことを考えると、呼誉上人のおこなった教育普及、徒弟育成は、文化9年本堂再建以来の建物、環境の大整備と並び賞される業績といえる。このような功績を讃えてその生前、明治44年に呼誉上人彰功碑が建立された。 近世史については次回...
歴代上人開山 本蓮社願誉上人了浄大和尚 20日2世 源蓮社心誉上人性誉大和尚 10日 3世 傳誉上人文達大和尚 10日 4世 聴誉上人空山大和尚 9日 5世 念誉上人及薩大和尚 11日 6世 浄誉上人及善大和尚 9日 7世 三誉上人讃應大和尚 11日 8世 明誉上人尊達大和尚 8日 9世 空誉上人玄随大和尚 10世 願誉上人圓説大和尚 20日 11世 随誉上人義道大和尚 13日 12世 性誉上人智哲大和尚 13世 心誉上人相山大和尚 13日 14世 心誉上人智玄大和尚 19日 15世 念誉上人玄的大和尚 14日 16世 観誉上人満説大和尚 17世 證誉上人智廊大和尚 16日 18世 栄誉上人玄貞大和尚 2日 19世 念誉上人外道大和尚 20世 寂誉上人了感大和尚 21世 心誉上人文哲大和尚 20日 22世 源蓮社貞誉上人呑白宗風大和尚 28日 23世 光誉上人哲道大和尚 16日 24世 覚蓮社行誉上人源説大和尚 延宝7年4月29日 25世 讃誉上人感円大和尚 享保4年1月5日 26世 浄蓮社清誉上人観阿龍単大和尚 宝歴4年3月12日 27世 音蓮社声誉上人観良大和尚 寛保2年6月18日 28世 皆蓮社到誉上人観及大和尚 明和4年1月3日 29世 称蓮社揚誉上人智観大和尚 明和2年10月29日 30世 真蓮社性誉上人助給阿教随大和尚 安永9年4月6日 31世 嘆蓮社讃誉上人玄海大和尚 寛政4年1月26日 32世 深蓮社諦誉上人善教大和尚 文化3年1月4日 33世 浄蓮社厳誉上人光阿麗道快全大和尚 天保6年5月1日 現在の本堂の再建中興 34世 壇蓮社称誉上人真阿実道卓全大和尚 文久2年5月27日 35世 立誉上人卓慧大和尚 明治33年3月4日 高田善導寺へ転出 36世 心蓮社識誉上人博阿古今大道快存大和尚 明治6年4月28日 37世 得誉上人快祐 明治11年2月1日 当山免職となる 38世 呼誉上人立雄大和尚 大正2年6月9日 荒廃の寺立て直す、近隣師弟教育 39世 盛蓮社旺誉上人法阿至道顕雄大和尚 明治28年9月29日 40世 円蓮社頓誉上人戒阿一道乗運大和尚 昭和20年3月 41世 実蓮社在誉上人存阿直道憲隆大和尚 昭和51年7月23日 42世 誠蓮社実誉上人貫阿隆道和尚 称蓮社念誉道也(第42世徒弟) |